闘将野村~弱小企業を一流へと導く新経営理論(第15回)|インタビュー|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
人気

2021.02.01

闘将野村~弱小企業を一流へと導く新経営理論(第15回)

闘将野村~弱小企業を一流へと導く新経営理論(第15回)
07 運は自分で引き寄せる-才能を見つける経営者とは②

 母親の反対を押し切ってプロの世界に飛び込んだものの、最初はまったく戦力として見なされていなかった野村監督。しかしクビ宣告直前までいきながらも意地で食い下がり、何とか1年のチャンスをもらい、再び野球漬けの日々に。必死に練習に打ち込む野村監督は、いつ、どうやってチャンスを掴んだのか。

-それで、いつくらいから試合に使ってもらえるようになるのでしょうか。

野村 2年目は、二軍のバッティング練習に付いて行けよと言われて、ファーストにコンバートされて、7番バッターだった。でも、それで二軍で打率2位の成績を残した。見る人が見たら感じる者があったんだろうけど、当時の一軍では、飯田徳治(※)さんっていう人が、ファーストの4番バッターで、レギュラーを務めていたんだよ。こんな人を抜くの大変じゃん。

※飯田徳治
南海ホークス、国鉄スワローズに所属した一塁手。走攻守揃った飯田徳治選手は華麗な守備が評判で、当時「100万ドルの内野陣」と評された一人。アマチュア時代から打率5割を超え、プロになってからもパ・リーグ打点王(1951年、1952年)になる。南海の5回のリーグ優勝に王権。黄金期を支えた一人である。後輩や同僚に優しかったことから、「仏の徳さん」と呼ばれた。

 飯田徳治選手は、当時の野球界のスーパースターである。まさに、野村監督の前に立ちはだかる大きな壁といったところだろう。
 野村監督はこの時点では、テスト生からプロになることを第一に考えている段階だ。楽しんで仕事をするほどの余裕などない。生活のための使命感であり、今で言えば、何としても踏ん張って、正社員への切符を掴みとらなければならない派遣社員のような状態だったのかもしれない。ただ、そんな貧困の中でも、現状の生活を満たすだけでなく、プロで活躍するという大きな夢は忘れていないのである。

 監督は、会話中、ふと止まるときがある。そしてしばらくの沈黙の後、またゆっくりと話し出す。

(次号へ続く)