真説賃貸業界史 第53回「市民病院に土地を提供した古川久吉」|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2023.03.20

真説賃貸業界史 第53回「市民病院に土地を提供した古川久吉」

真説賃貸業界史 第53回「市民病院に土地を提供した古川久吉」
数百戸の家屋を建築し市民に賃貸

 戦前の日本には、全国各地に今とは現代からは想像できないほど広大な土地を所有していた大地主が存在していた。当コーナーでもこれまでに、東北三大地主と呼ばれた齋藤家、池田家、本間家をはじめ、いくつかの大地主を取り上げてきた。今回は広島県の古川家を取り上げる。

 古川家繁栄の礎を築いたのは、伊三郎氏の子として1846年に生まれた久吉氏だ。生地は広島市西区観音とされる。
 資料によると、伊三郎氏から家督を相続した久吉氏は、明治維新前から米穀商を営み、旧藩の御用を務めていた。一方で、1870年には醤油醸造業に進出。さらに1882年には堺町で清酒醸造も始め、5年後には紙屋町に酒造場を増築した。
 醤油醸造業は順調で、年々石数を増やし、やがて外国にも輸出するようになったという。ここで久吉氏は醤油醸造に専念するために酒造業を賃貸に改め、大家業に進出した。醤油醸造業で得た資金を元手に土地を取得し、数百戸の家屋を建築。それらを市民に賃貸した。このことから市民は久吉氏を尊重していたとされる。詳細は不明だが、当時の古川家は県内の市郡町村にかなりの数の土地を有していたようだ。
 醸造業、賃貸業などで成功を収めた久吉氏はその後、金融業界に進出。広島産業銀行、藝備銀行の各取締役や、廣島銀行、広島商業銀行、広島貯蓄銀行の各監査役などを務めた。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有していたことからも、実業家として大きな成功を手にしていたことが伺い知れる。
 また、久吉氏が大地主としてだけでなく、名士としても名高い。「地方独立行政法人広島市立病院機構 広島市立舟入市民病院(旧広島市立舟入病院)」への土地提供のエピソードに拠るところが大きい。赤痢や腸チフスの隔離施設として、明治12年に広島市内で開設された同病院は、同28年に拡張移転を計画。しかし、近隣住民の反対にあい、なかなか移転地が決まらずにいた。-このままでは計画がとん挫医してしまう・・・-そんな心配の声が上がる中、手を挙げたのが久吉氏だったという。久吉氏は移転地として自宅の隣の土地を提供。結果、同病院はアクセスに優れた市街地の病院として今も市民生活を支え続けている。病気や感染症に対する警戒心が今とは比較にならないほど強い時代。人里離れた場所ならまだしも、あえて危険を冒して自宅の隣の土地を提供するなど、なかなかできることではない。久吉氏の偉大さが分かるエピソードではないだろうか。
 久吉氏の跡は、長男の久吉氏(前名芳蔵)が相続。送油醸造業を営む傍ら、銀行会社の重役なども務め、父同様、貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。
 戦前の大地主の多くは、所有地の大半が農地だったことから、戦後の農地改革で土地を失い、大地主としての立場を失った。その点、古川家が有した土地は農地ではなかったため、農地改革で召し上げられなかった可能性はある。ただ、その後の不動産資産の行方について書かれた資料が見当たらないため、古川家が今も多くの土地を有しているのかは不明だ。
 広島県には今回紹介した古川家以外にも、保田家や八田家など、後世に名を残す大地主がいくつか存在する。次回は広島県を代表する山林地主、八田家についてまとめていく。