闘将野村「新経営論」第13回|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2017.12.25

闘将野村「新経営論」第13回

闘将野村「新経営論」第13回
運は自分で引き寄せる。才能を見つける経営者とは

テスト生で入った時に、元々一軍選手にしようとは思っていなかったということですか?

 ―野村監督が、試合にも使われず、テスト生のままクビになるときの話である―

野村 はじめから戦力としては考えられていなっかった。その証拠に「鶴岡監督来てなかっただろう」と言われて、そういえば監督の顔見なかったなと。それでもうガッカリしてね、もう帰ろうと思たんだよ。俺はバッティングキャッチャーするためにプロを志願したわけじゃないからと思ったんだけどね、帰れない理由が一つあって母親が大反対したんだよ。そんな田舎者がね、華やかな世界行って成功するわけがないから地道な道に行けと。ちゃんと社会人野球受かってるのだから、その道を行けって母親が言うんだよ。母親の大反対押し切ってプロに行ったもんだから、1年目でクビ宣告されたら母親は「それ!見たか!」となるから。これは泣きつくしかないなと思って、「試合に出てないのに何でクビだと、納得できません」って言って。
ワシらの目を信じて「やり直しは早い方がいいから、19歳なったばかりだからもうプロを諦めろ」と言われても俺は「諦めきれない、嫌です。1試合でもいいから試合に使ってみて下さい」とお願いしたんだよ。試合に出ても出なくてもクビなのに、1回もキャッチャーやってないのに納得できませんて。
「今年15人の新人が入って会社の事情も分かって納得してくれ」と言われても俺は「嫌です」って。すると「お前しつこいなお前みたいなの初めてだ。毎年こういうふうにしてきてるけど、素直にお世話になりましたってみんな素直に帰って行ったぞ」と。


 その時の会社からすれば、当時の野村監督は解雇対象の社員であり、それを拒むややこしい社員なのである。
 
-それは監督の中で試合に出れば結果を残せる自信があったのですか?

野村 自信なんかあるわけないじゃないですか。試合に使ってもらってないのにクビっていうのが納得いかない。それで部屋から出て行って10分くらいして帰って行ったけど、よし分かった!!もう一度面倒みてやるっていってそんなことがあったの。

 高卒だから、良い大学に出ていないから、無名だから・・・
 皆はじめは無名である。どんなに才能があっても、努力をしても土壌がなければ花は咲かないのである。

-それでいつぐらいから試合に使ってもらえるようになるんですか?

野村 2年目から僕のバッティングにみるものあるから、2軍のバッティング練習について行けよと言われたの。二軍のファーストに、1年先輩で川原っていう人がいたのだけども、大したことがなくて7番バッターだった。川原には勝てるだろうと、それで俺がほとんどファーストで全試合出て3割2分でホームラン7本位打った。見る人が見たら感じるものがあったのだろうけど、そのままいっても一軍のファーストのレギュラーで4番を打っていた※飯田徳治さんっていう人がいたから、こんな人抜くの大変じゃん。

飯田徳治選手といえば、当時の野球界のスーパースターである。

監督はこの時点では、テスト生からプロになることを第一に考えている。楽しんで仕事をしているのではない、生活のための使命感であり、そこで何とか正社員にならなければいけないという、派遣社員のような状態だったのかもしれない。
ただ、そんな貧困な中でも現状の生活を満たすだけでなく、プロで活躍するという大きい夢は忘れていないのである。

 監督は、話している途中でふと止まる時がある。

そしてしばらくの沈黙の後、またゆっくりと話し出す。-次号へ続く-

※飯田徳治 南海ホークス、国鉄スワローズに所属した1塁手。走攻守揃った飯田徳治は華麗な守備が評判であり、当時「100万ドルの内野陣」と称される。
アマチュア時代から打率5割越え、プロになってからもパ・リーグ打点王第1号になる。
南海の5回のリーグ優勝。黄金期を支えた一人である。
後輩や同僚にも優しかったことから「仏の徳さん」と呼ばれる。