真説 賃貸業界史 第33回~東北三大地主、齋藤家・池田家・本間家~|不動産|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2020.11.02

真説 賃貸業界史 第33回~東北三大地主、齋藤家・池田家・本間家~

真説 賃貸業界史 第33回~東北三大地主、齋藤家・池田家・本間家~
明治初期から戦前にかけての大地主

 日本の歴史における一番の大地主は誰か?それはおそらくは天皇家ということになるのではないだろうか?戦前には皇居の他、赤坂御用地や鴨場、御料牧場、陵墓などはすべて天皇家が所有していた。すべてを合わせた広さは長野県に匹敵すると言われ、まさに推しも推されぬ日本一の大地主だった。しかし今もそうかと言えば、それは違う。終戦から間もなくして、天皇家が保有していた不動産はすべて国の管理に移管され、例えば皇居であれば、天皇家は国から借りている状態になっている。つまりはもう、大地主ではないわけだ。今回は近現代における大地主についてまとめた。

 「この辺り一帯は、かつて○○家が所有していた。だから今でも、あちこちに○○という名字の家がある。ほとんどかつての分家とか親戚筋だよ」

街を歩いているとたまに、やたらと同じ名前の家が目に付くことがある。三軒隣も○○なら、角を曲がった先も○○。偶然かと思ってさらに歩いてみると、また○○。下手をしたら○○が地名にもなっている。そんな光景を目にしたことがあるという方は多いはずだ。これは、かつてその地域一帯が、○○家の所有する土地だった名残であることが多い。明治や大正時代を舞台にしたドラマや小説などによく登場する、その地域一帯を管理する「庄屋様」は、大地主がなることが多かった。だから、大地主は地域で絶対的な権力をもち、名士として慕われていた。
 さて、東北地方には「三大地主」と呼ばれる大資産家の家系があったのをご存知だろうか?三家とは、宮城県石巻市の「齋藤家」と秋田県大仙市の「池田家」、山形県酒田市の「本間家」だ。明治後期から昭和初期にかけて、三家はそれぞれ広大な農内を所有し、大量の小作人を抱えていた。一体どのくらいの土地を所有していたのかというと、資料によれば、齋藤家は田畑1500ヘクタール、池田家は耕地1054ヘクタール、本間家は3000ヘクタールをそれぞれ所有していた。ちなみに東京ドーム1個分の広さが約4.6ヘクタールなので、齋藤家は326個分、池田家は225個分、本間家に至っては650個分相当の土地を所有していたことになる。まさに日本屈指の大地主だったわけだ。
 「齋藤家」を大地主へと成長させたのは、9代目当主の善右衛門氏だ。1854年、善次右衛門氏の長男として生まれた善右衛門氏は、父の死後に家督を継ぐ。金穀貸付業で財を成した後、1890年に川崎銀行顧問役・山口周作氏の不動産管理会社、山口店を買収し、1115町歩の大地主になった。その後、政界に進出したり、炭鉱経営にも参画し、1923年に小作争議が起こると、翌年に信託法・信託業法に基づき仙台信託を設立し、所有する田畑を信託した。善右衛門氏の死後、息子の善次郎が跡を継いだが、戦後の農地改革で齋藤家の所有する土地は買収され、衰退した。
 池田家が大地主としての道を歩み始めたのは、11代目文八郎氏(1818年-1880年)の時代だ。倹約家だった文八郎氏は、傾きかけていた池田家の経営を立て直し、地主としての土台を築いた。その後、幕末から明治初期にかけて、池田家は所有地を着実に増やしていき、13代目文太郎氏(1868年-昭和2年)のときに最盛期を迎えた。大仙市高梨にある池田家の庭園は、2004年に国の名勝に指定され、一般公開されている。
 東北三大地主の中で、もっとも大きな規模を誇っていたとされるのが本間家だ。金融業で財を成した本間家は、大名家に金銭を貸し付ける「大名貸」で得た利益を元手に土地を購入し、田畑を拡大。一方で、防風林や灌漑事業の整備に尽力し、市の近代化に大いに貢献した。しかし、戦後の農地改革で、1750ヘクタールもの農地をタダ同然で売り渡され、最盛期に3000ヘクタールあった土地は、最終的にわずか4ヘクタールだけが残った。本間家の事業はその後、縮小の一途を辿ったが、不動産関連を手掛ける本立信成などは現存する。ちなみに、ゴルフショップ「本間ゴルフ」の創業者は、本間家庶流の敬啓氏。ゴルフをやる方は、意外と本間家を身近な存在に感じるかもしれない。
 今回は、宮城県、秋田県、山形県で大地主を紹介したが、実は東北地方にはこの他にも多くの大地主が存在していた。中でも秋田県は、大正13年時点で、50ヘクタール以上の田畑を所有する大地主の数が、新潟県の256人に次ぐ212人もいたとされる。宮城県が162人、山形県が124人だったことを考えれば、群を抜いていたと言えるだろう。これらについても、いずれ機会があれば取り上げたい。