真説賃貸業界史 第57回「東京ドーム1925個分を所有していた奈良の山林王」|コラム|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2023.07.23

真説賃貸業界史 第57回「東京ドーム1925個分を所有していた奈良の山林王」

真説賃貸業界史 第57回「東京ドーム1925個分を所有していた奈良の山林王」
私財を投じて日本の林業の発展に貢献

 江戸末期~戦前までの日本には、今の感覚ではとても想像のつかない大規模な地主が数多く存在した。そのほとんどは戦後の農地改革でタダ同然に土地を手放し、表舞台から消えてしまったが、中には歴史に名を残す名士もいる。今回は奈良県の奈良屈指の山林王、土倉庄三郎氏にスポットを当てる。

 土倉庄三郎氏は1840年(天保11年4月10日)に、現在の奈良県吉野郡である大和国吉野郡大滝村で庄右衛門の三男として生まれた。幼名は丞之介。同地一帯は、山林家や山守によって先祖代々引き継がれてきた地で、土倉家も川上村の大山林家の一つでした。
 庄三郎氏が林業と具体的な接点を持つようになったのは15歳のとき。当時の吉野川一帯には、川下の紀州藩との間で行われる利益配分の交渉を、最も多くの材木を搬出する吉野林業地の川上村から選出する習わしがありました。しかし、庄三郎氏が川上村大滝郷の材木方総代に就任して間もなく、ある人物が代官所を結託して、この習わしを崩そうとする「宇兵衛騒動」と呼ばれる一件が生じました。庄三郎氏はみずからの政治力を活かし、その人物の不正を暴いて騒動を解決。この一件が知れるや、庄三郎氏の名はたちまち辺り一帯に知れ渡ったそうです。
 今に伝わる庄三郎氏の偉業の一つとして、吉野川沿い一帯の道路整備があります。山深い吉野川上流で伐採された材木を川下まで運ぶためには整った道が不可欠だと考えた庄三郎氏は、自ら莫大な私財を投じるととともに、沿道の地主を一人一人説得して回って道路建設のための費用を準備。長い年月をかけて、材木輸送のための道を作り上げました。現在の国道169号線や東熊野街道、吉野町から五條市へと通じる道路などは、庄三郎氏の尽力によって整備されました。一方で先祖代々の山林経営にも非常に熱心で、幼い頃より厳しい父のもとでそのノウハウを学び、生涯をかけて同地方に伝承される多くの造林技術を追求したそうです。庄三郎氏の研究した技術は全国へ広がり、静岡県の天竜川流域、群馬県伊香保、滋賀県塩津、兵庫県但馬などの山林で、今も継承されています。その集大成とも言える「吉野林業全書」は、吉野林業の技術を後世に伝える林業家のバイブルとして、明治31年(1898年)に発刊されました。
 さて、日本の林業の発展に大きな貢献をした庄三郎氏ですが、一体どのくらいの財産をあったのでしょうか?言うまでもなくその財力は桁違いで、山林は吉野郡内に約九千町歩(東京ドーム約1925分)にも及んだそうです。庄三郎氏は「私財は世の中に還元する」という自らのポリシーに従い、財産を三等分し、「国」「教育」「事業」に投じました。当時の日本を牽引していた山形有朋、井上馨、伊藤博布以、大隈重信といった明治の元勲たちも庄三郎氏に会うために、わざわざ険しい山道を越えて川上村を訪れたのだそうです。
 また、庄三郎氏は鉄道事業にも熱心で、1899年には吉野鉄道株式会社(現在の近鉄吉野線の前身にあたる吉野鉄道とは別の会社)の設立に参画しました。
 こうして私財を投じて地域及び日本の林業の発展に貢献した庄三郎氏は、その功績が称えら、還暦のときに山形有朋より「樹喜王」の祝号が送られました。
 庄三郎氏は生涯、吉野で過ごし明治33年には60歳で川上村村長に就任。大正6年(1917年)に78歳で死去しました。川上村大滝の集落の対岸にある鎧掛岩には、庄三郎氏の偉業をたたえ、「土倉翁造林頌徳記念」と刻まれた巨大な碑が立っています。
 土倉庄三郎氏に限らず、歴史に名を残し大地主は、私財を投じて地域や日本の発展に尽力した人物が多くいます。今後も、それらのエピソードも交えながら日本の大地主を取り上げていきます。