真説賃貸業界史 第58回「660名の小作人を抱えた宮城県屈指の大地主」|賃貸経営|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2023.08.21

真説賃貸業界史 第58回「660名の小作人を抱えた宮城県屈指の大地主」

真説賃貸業界史 第58回「660名の小作人を抱えた宮城県屈指の大地主」
現存する邸宅の敷地は約730坪

 江戸末期から明治、大正と続く戦前の日本には、現代の感覚では計り知れないほど広大な土地を有していた大地主が数多く存在していた。しかし、そのほとんどは戦後の農地改革で持っていた土地の大半を手放すこととなり、歴史の表舞台から消えてしまった。とはいえ、その痕跡は今も各地に残されており、過去の偉業を辿ることができる事例もいくつかある。今回は宮城県を代表する名家、佐藤家の歴史についてまとめた。

 宮城県柴田郡大河原町町。かつて伊達政宗が治めていた仙台藩に属していたこの地に、明治から昭和初期にかけて建築された存在感の際立つ木造住宅群がある。平成29年に国指定登録有形文化財に登録されたこれらの建物は「佐藤屋邸」と呼ばれ、もっとも古いものは明治19年の建築とされる。広大な敷地内には他に、明治34年と昭和14年に建てられた建物も現存する。これらは、もとは“仙南一の大地主”と謳われた佐藤屋の邸宅として利用されていたものだ。
 佐藤屋繁栄の礎を築いたのは山形県米沢出身の初代権左衛門氏(1752年-1822年)だ。権左衛門氏は安永年間(1772年-1780年)に須藤屋幸助氏が当主を務める大河原須藤屋に奉公し、その後に独立。屋号は須藤屋の勧めもあって、自身の出身地にちなんで「山米(やまこめ)」とした。
 その後、四代目の源三郎の代になって佐藤屋は大きく飛躍する。1850年に新たに醤油醸造を創業し、味噌・醤油醸造、呉服商と、事業を多角的に大きく拡大させた。
 後を継いだ五代目源三郎氏は家業の経営と並行して、町議員や郵便局長などを歴任した。一方で六代目源助とともに農事改良にも注力し、また、地域振興の一環として東北本線誘致活動に投資したり、教育・福祉・文化などの公益活動への寄付も積極的に行った。
 七代目源三郎の代には地主として最盛期を迎える。当時、抱えていた小作人の数はなんと660名にものぼったという。どのくらいの土地を所有していたのかは、詳しい資料がないため不明だが、小作人の数から想像するに、かなり広大な土地を所有していたと推察される。
 しかし、多くの大地主と同様、所有していた土地の大半は戦後の農地改革で手放した。とはいえ、先述した「佐藤屋邸」の建つ敷地については、戦後もそのまま佐藤屋が所有。その敷地面積は約730坪。さすがに戦前と比べたらだいぶ小規模になったものの、現代の感覚からすれば、十分に大地主と言えるレベルだ。
 現在、佐藤家の当主を務めるのは九代目源之氏。実は源之氏は昨年、あるテレビ番組がきっかけで、ちょっとした話題になった。その番組とは「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」で、2月11日に放送された「開かずの金庫を開けろ!」という企画に源之氏と佐藤屋邸が登場。邸内から先祖が遺したさまざまな“お宝”を発掘し、視聴者を驚かせた。ちなみに鍵を紛失し、50年以上開かずの状態だった箪笥を開けてみたところ、中は空っぽだった。
 話しは逸れたが、佐藤家は今も、地元大河原町では知らぬ者がいないほどの名家として存続している。戦後の農地改革で多くの大地主が没落してしまったことを考えると、佐藤家は稀有な存在だと言えるだろう。
 今回は宮城県に代々続く名家、佐藤家を取り上げた。全国を見渡せば、かつて大地主だった旧名家はまだまだ他にもたくさんある。引き続き取り上げていきたい。