新説賃貸業界史 第59回「現役Jリーガーを輩出した大阪の名門一族」|知識・教養|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
豆知識

2023.09.11

新説賃貸業界史 第59回「現役Jリーガーを輩出した大阪の名門一族」

新説賃貸業界史 第59回「現役Jリーガーを輩出した大阪の名門一族」
長者番付では西の大関

 -食野亮太郎(めしの・りょうたろう)-サッカーファンなら誰もが知っているガンバ大阪に所属する現役プロ選手だ。「なぜ本稿でサッカー選手を取り上げるのか?」と疑問に思った方もいるだろう。その理由は簡単だ。実は食野選手は、江戸時代に巨万の富を築いた豪商にして大地主、食野家の末裔なのだ。今回は大阪を代表する大地主、食野家を取り上げる。

 食野家は江戸時代中期から幕末にかけて、現在の大阪府泉佐野市にあたる和泉国日根郡佐野村を拠点に、さまざまな事業で成功して財を成した一族だ。その規模は桁外れで、当時の全国長者番付「諸国家業じまん」にも、上位に位置する一族として紹介されているほどだ。ちなみ「諸国家業じまん」は全国の有力資産家を相撲の番付風に紹介したもので、食野家は西の大関として紹介されている。当時の横綱は今と違い、どちらかというと名誉称号的な意味合いが強かったことを考えれば、食野家は実質西日本一の豪商一族だったことになる。
 そもそも食野家のルーツは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将、楠木正成の子孫、大饗氏にあるとされる。真偽のほどは定かではないが、本当であれば出からして名門一族と言える。事業家としての道を歩み始めたのは初代正久の頃だと伝えられる。廻船業を立ち上げ、これが見事に当たった。西回り航路が開かれた江戸時代中頃には約100隻もの船を所有し、全国の市場に進出。潤沢な資金を得たことで、財政難に苦しむ藩に貸し付けを行ういわゆる大名貸しにも着手し、大資産を築いた。
 当時、所有していた土地の規模も桁違いだ。摂津国西成郡春日出新田(現在の大阪市此花区春日出中)をはじめ、西道頓堀川近くの幸町や南堀江一帯、現在の南海「泉佐野駅」から濵川一帯など、大阪各地に広大な土地を所有していた。当時の岸和田藩にとって食野家は、同じ和泉国日根郡を拠点に反映した唐金家とともに、財政上なくてはならない存在だったようだ。また、大名貸しが尾張徳川家や紀州徳川家などにも及んでいたこともあり、全国の大名にまつわるさまざまなエピソードも残されている。長くなるためここでは割愛するが、食野家の影響力が全国にまで及んでいたことは、このことからも容易に想像がつく。
 さて、江戸時代を通じて大いに繁栄した食野家だが、泉佐野市の始まりの地にはすでにない。実は幕末に廻船業が停滞したことに加え、大名に貸し付けた莫大な貸金が廃藩置県によってほとんど回収不能となったこと、家人による財産の浪費したことなどが重なり、一気に没落してしまったのだ。同家の屋敷があった場所は1845年に佐野村によって買収され、現在は佐野市立第一小学校になっている。敷地内には松の木と井戸枠、石碑などがあるが、これらは食野家の繁栄ぶりを伝える数少ない遺構だ。
 江戸時代に反映した地主一族は、明治、大正、昭和初期を通じてその存在感を発揮し続け、終戦後に農地改革で所有地の大半を手放したケースが多い。今回ご紹介した食野家のように、終戦を待たずして、江戸時代の終焉とともに没落してしまったケースは珍しい。これはあくまでも推測だが、その原因は、廻船業に収益の柱を作ることができず、一方で大名貸しへの依存度が高かったことにあったのではないだろうか。廻船業と大名貸しに依存せず、もっと多角的にさまざまな事業を手掛けることができていれば、食野家は江戸時代だけでなく、明治、大正、昭和を通じて、もっと息の長い一族として繁栄していたかもしれない。余談だが、現役プロサッカー選手である食野亮太郎選手の存在感は、出てきた当初に比べるとやや薄れている印象がある。現在25歳、これから脂が乗ってくる年齢だ。食野家が再び脚光を浴びれるように、もう一花、二花咲かせて欲しいものだ。