真説賃貸業界史 第61回「全国2位の大農地を所有した豪農」|住生活を支える新聞株式会社のWebマガジン
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2024.03.18

真説賃貸業界史 第61回「全国2位の大農地を所有した豪農」

真説賃貸業界史 第61回「全国2位の大農地を所有した豪農」
その広さは東京ドーム326個分相当

 明治後期から昭和初期を代表する大地主と言えば「東北三大地主」と呼ばれた宮崎県石巻市の斎藤家、秋田県大仙市の池田家、山形県酒田市の本間家がもっとも有名だ。本稿でも以前に取り上げたことがあるので、ご記憶の読者もいるだろう。今回はその東北三大地主の一つ、斎藤家を国内屈指の大地主に成長させた斎藤善右衛門氏について、深く掘り下げてみたい。

 斎藤善右衛門氏は安政元年7月(1854年)に、石巻市斎藤家8代目善次右衛門氏の長男として、陸奥国桃生郡前谷地村で生まれた。幼名は養之助。戦国時代から安土時代に活躍した大名・葛西晴信に仕えた斎藤壱岐氏を遠祖とする。
幼少期の善右衛門氏は文武両道に励む。慶応3年(1867年)には仙台で暮らす叔母を頼り、その家で暮らしながら藩校養賢堂に通って、経史、剣道などを学んだ。
善右衛門氏が父の後を継いで石巻斎藤家9代目当主となったのは慶応4年(1868年)のこと。同年に起こった薩摩藩と長州藩からなる新政府軍と、旧江戸幕府軍と奥羽越列藩同盟、蝦夷共和国の連動軍が戦った戊辰戦争に参加していた父の戦死によって、叔父の廉吾氏を後見人に、家督を継いだ。さらに同年終わりには桃生郡が仙台藩領から外されたため、善右衛門氏は士分を保つために石巻から仙台へと移住した。このとき名を善寿郎と改称した。
 善右衛門氏の前半生は波乱万丈に満ちている。家督を継いで3年目の明治2年(1869年)には、屋敷が仙台藩復興のために蹶起した見国隊に襲われ、家財を押収される被害に遭った。さらに明治7年(1874年)には、善右衛門氏から村の二等戸長を辞職した際に、後任の遠藤雄吾氏から地検の土地検査における不正があったとして告発されて捜査を受けた。結果的に不正はなかったとして善右衛門氏が罪に問われることはなく、事なきを得た。
 早くから海外市場に目を向けていた善右衛門氏は、明治8年になると関西を中心に西日本各地の酒造家を回り、海外輸出を持ち掛ける。しかし、熱頃に母親が病気で倒れたため計画をいったん中断して帰郷する。明治11年(1878年)には後見人の廉吾氏が隠居したのを機に斎藤家の全権を得て、再び関西の酒造家を巡り、日本酒海外輸出会社の設立と長崎からの大陸渡航構想を呼びかけたが、結局これは賛同者を得られず、計画そのものを断念した。実現には至らなかったものの、同時期に日本酒の海外輸出という思い切った計画を構想していていたその視野の広さには、驚きを禁じ得ない。
 日本酒の海外輸出が断念した善右衛門氏は、明治15年(1882年)に金殻貸付業に専念するために質業や酒造業などを廃業。これが功を奏し、業績は急速に拡大。1890年には川崎銀行顧問役山口俊作氏の不動産管理会社山口店を買収し、一気に1115町歩を所有する巨大地主へと変貌を遂げた。1町歩はほぼ1ヘクタールのため、東京ドーム(約4.6ヘクタール)に換算すると約242個分に相当する。「どこにそれだけの土地があるのだ」と思うような広大な土地を有していたことになる。ちなみに、斎藤家が所有していた田畑は1500町歩と記された資料もある。東京ドームなら約326個分に相当する。現代の感覚からしたら異次元としか言いようがない。第二次世界大戦後の農地解放までは、山形県の酒田本間家に次ぐ、全国2位の豪農だったという。
 とにもかくにも事業をうまく軌道に乗せた善右衛門氏は、貸付先を地元の小作人から貸金業者へと拡大。利息遅延者の抵当地の売却・取得でいくつかのトラブルに巻き込まれることもあったものの、斎藤家は隆盛の時を迎えた。
 善右衛門氏は近代会に向けた投資にも積極的だった。貸金業が停滞した明治40年代には、都市貨幣市場に進出。さらに鉱業・電気事業などにも多額の資金を投資した。大正期には炭鉱経営にも参画している。
 善右衛門氏が亡くなったのは大正12年1月(1923年)。家督は長男養次郎が継ぎ、10代目善右衛門を襲名した。
 斎藤家の隆盛を伝えるものとして、宮城県石巻市には斎藤氏庭園が遺されている。2005年には国の名勝に指定された。一部見学できない施設等があるもが、無料で一般開放されている。